僕は、踊り続ける。音楽がある限り。
命ある限り。
Temps Lie
一九四〇年十二月、帝都・東京――
銀座、大帝国劇場の入口には、大きな飾りが吊されていた。金銀の星や鐘、赤いリボン、柊など、クリスマスを彩るに相応しい華やかな飾りだ。そして、金色のモールと樅の葉で作られた枠の中に、一枚のポスターが貼られている。『奇跡の鐘』と書かれたポスターには、白いベールを被った、銀色の髪の女性の姿が描かれている。青い瞳を細めて穏やかな笑みを浮かべる女性の脇に、「皆様への感謝を込めて、一夜限りの復活公演」と記されている。この演目は、ポスターに描かれた女優、レニ・ミルヒシュトラーセが十五年前の初演で主役を演じ、大絶賛を受けた作品だ。初演から十年間、毎年再演をしていたが、一九三五年、大帝国劇場支配人であり、帝国歌劇団の演出家の一人でもあった大神一郎が支配人職を辞した時、上演を終了した。出演者達が、大神の演出でなければやりたくないと主張したためだ。幻と化した名作、その復活とあって、チケットは瞬く間に完売した。しかも、一回限りの公演。チケット争奪戦は凄まじく発売の六時間前には既に長蛇の列が出来ていた程だ。
劇場内にもポスターは貼られている。公演の前日の慌ただしい準備やゲネプロを終え、劇場全体が静まり返った深夜一時、今回も五年前までと同様に主役を務めるレニは、ポスターをじっと見詰めていた。小さく息をつきながらそっと撫でたポスターのタイトルの横には、小さく「帝国歌劇団最終公演」の文字がある。五年前、この作品を最後に、大神は大帝国劇場を去った。十二月二十四日に上演、辞任はその一週間後――十二月三十一日だった。奇しくも、同じ作品を同じ日に上演し、大神の辞任と同じ日に帝国歌劇団は解散することになっている。“聖母役:レニ・ミルヒシュトラーセ”――五年前と変わらない名前。しかし、“演出”の隣りに記された名は、かつてとは違う。“マリア・タチバナ”。レニは眼を閉じた。
「お誕生日おめでとう」
背後からの声に、レニははっと顔を上げた。
「ありがとう……」
振り返らず、穏やかに答える。その人は、帝国歌劇団最終公演の演出家だ。
「いよいよね」
「うん、五年前より更に良い作品に仕上がってると思うから、楽しみだよ」
「私は緊張するわ。五年前に大絶賛された作品の演出を手掛けるなんて思わなかったもの。自分の大好きな作品だから余計にね」
レニはゆっくりと振り返り、マリアを見上げる。
「みんなの大好きな、大切な作品で帝国歌劇団の最後を飾ろうっていう支配人の考えには、僕も賛成だ」
「上演するか、出来るかどうかは随分と悩んでたけどね、支配人……カンナも」
「そうなんだ……」
現在の大帝国劇場の支配人は、歌劇団の団員の一人でもある桐島カンナ。副支配人は真宮寺さくらが務めている。マリアの言葉に、何も知らずにいたレニは視線を落とした。
「カンナ、辛いだろうね。あの人に支配人に選ばれて……本当は、僕が主役を演じる作品は良くなかったんじゃない?」
「最後だから、何を言われてもこれをしたいって、悩みながらも上に話も通さず押し切ったのよ。チケットも売れに売れたから、今更中止なんかには出来ないわ」
中止にしたら、暴動になりかねない。この公演は、そこまで細かく仕組まれている。カンナがそんな事を考えられるわけではない。恐らく、マリアやかつて副支配人であった藤枝かえでの進言があったのだろう。尤も、かえでが帝国歌劇団に関与している事は、外部に知られてはならない機密事項であるため、それを知る者は団内にも数える程しかいないのだが。
「大神さんは観に来るの?」
「そのつもりみたい。でも、もう関係者じゃないし、軍に訝られないように、楽屋には来ないって」
「あら、妻が出演者なんだから、無関係ではないのにね」
レニは頬を染め、肩を竦めた。
「あの人はそういう人なんだ。立場もあるしね……」
そう言ってレニは微笑んで見せたが、上手く笑えていない事は解っていた。
「いつのまに、こんなに何もかもが難しい時代になったんだろうね……」
大神が楽屋に来られない。観に来られれば良い方だ。もしかしたらそれさえ危ういかも知れない。
「上演出来るだけ良いと思わなきゃかな……」
レニは、ふとポスターに視線を戻す。連ねられた出演者の名前の中に、“神崎すみれ”“李紅蘭”の文字は無い。事情があり、この二人は帝劇を離れている。彼女らの戻らない内に解散しなくてはならないのだと思うと、居た堪れない。だけど、例え誰かが欠けたとしても、上演できる事だけでも喜ばしい事なのだ。
「そうね。それに……たとえ帝国歌劇団が解散しても、私達が演じた作品は、帝都の人達の心に残るわ。観た人が忘れられなくなるような、そんな舞台にしましょう」
「そうだね、頑張ろうね。……それじゃぁ、僕、そろそろ戻るよ。僕がベッドにいない事が解ったら、物凄く泣くか――」
レニが言いかけた時、二階から突然、子供の泣き声が響いた。
「うわ、起きちゃったみたい!」
レニは一目散に階段を駆け上がった。
レニが大神と結婚して、七年。前回の『奇跡の鐘』上演の数ヶ月前に生まれた子供も、もう五歳だ。レニと大神は帝劇とは別の場所に居を構えているが、公演前だけは、レニは子供を連れて帝劇に泊まっている。レニが部屋に着いたのか、徐々に小さくなっていく子供の声を聞きながら、マリアは小さく微笑んだ。
「…………隊長」
“演出:マリア・タチバナ”。その文字に、マリアはそっと指を触れる。本来は、“演出:大神一郎”でなくてはならないのに。そうでなければ、自分もこの作品を再演したいなどと思わなかった。何が何でも、彼を演出家にしようと、あの手この手を尽くしたが、叶う事は無かった。
「隊長……」
ポスターに額を押し当てて、マリアは固く瞳を閉じる。
「観ていて下さい、貴方の守った劇団の……私達の……最後の舞台を……!」
絶対に、成功させる。帝都に住む総ての人の心に、最高の姿を刻んで、有終の美を飾ってみせる。ぽつり、ぽつりと零れ出す涙には、マリアの決意が込められていた。マリアもまた、帝国歌劇団解散と共に日本を離れる事を決めている。それを知るのは、今はまだ、カンナとかえでのみである。
十二月二十四日、午後七時――
光溢れる、華やかな舞台は幕を開けた。観客は息を飲んだ。帝国歌劇団花組の舞台が素晴らしい事は誰もが知っているが、こんな舞台は初めてだ。
帝国歌劇団は、花組のメンバーが僅か五人だった頃の評価は決して高くはなかった。素人同然のメンバー、役者としての素養があるのは神崎すみれだけ。初公演では、一幕と二幕の間に観客が半分になるという苦い経験もした。しかし、努力に努力を重ね、次第に世間に認められるようになってきた。そこに、真宮寺さくらという新しいヒロインが参入し、急激な成長を遂げた。そして、クラシックの音楽やダンスで飛び抜けた資質を持つソレッタ・織姫とレニの加入により、更に高レベルで安定した公演が打てるようになった。
あれから十五年。帝国歌劇団花組の実力は誰もが知っている。だが、この公演はこれまでの花組を遥かに凌駕していた。空気が震えた。心臓を鷲掴みにされたかのように、観客は呆然としていた。照明の光以上に役者達は輝き、音響機器から流れ出す音以上に役者の声が響き渡る。こんな舞台を見たことは無いと、総ての観客が感じた。特に、終盤のレニのソロは、観る者総ての胸に響き渡り、多くの人が、自らの意思とは無関係に、静かに涙を零した。幕が下りた後の数秒の沈黙、その後の割れんばかりの拍手……それら総てが、公演の成功を物語っていた。十数回にわたるカーテンコール。観客はなかなか席を動こうとせず、花組は何度も舞台に戻っては、声援に答えた。舞台の上で、誰一人涙を見せる者はなかった。最年少で涙脆いアイリスさえ、奥歯を噛み締めて懸命に涙をこらえ、笑顔を振りまいていた。それは、幕が下りるまでは“己”を見せてはならないという、役者としての誇り故の事だった。
帝国歌劇団の面々にとって、忘れられない舞台になった事は言うまでもないだろう。
完全に幕が下りて、公演終了のアナウンスが流れ出すと、出演者、スタッフ問わず、全員が大粒の涙を流し、舞台の上で関係者だけで自分達に大きな拍手を送り合った。やがてゆっくりと緞帳が上がり、客席や音響ルームにいたスタッフも集まってきた。レニとアイリスは抱き合いレニの子供を挟んで、マリアとカンナは肩を組んで微笑みあいながら泣いていた。さくらはまるで幼い少女のように床に泣き崩れ、織姫も声を上げて泣いた。二人の声が、帝国歌劇団の終わりを確かに告げ、微笑みはいつしか、嗚咽に変わっていった。
「……みんな、本当にお疲れ様でした!」
全員が顔をぐしゃぐしゃにして泣いている、その中で、真っ先に意味のある言葉を発したのは、カンナだった。大帝国劇場の支配人である自分が、此処で場を仕切らねばならないと、意を決して声を上げた。マリアはカンナの声で我に返り、真っ赤な顔のままカンナの背中を支えた。辛い思いを堪えてカンナがみんなを纏めようとしているのだ、花組の隊長として、カンナの親友として、彼女を支えなくてはならないと、マリアは強く感じていた。
「みんな、解ってんだろ、今日の公演は最高だった!!」
カンナの言葉に、「おぉっ!!」と歓声が上がり、拍手が広がった。
「帝国歌劇団は最高だ。本当に、あたいは胸を張ってそう言える。これが最後の公演だ。信じらんねぇけど、正真正銘、最後だ」
カンナは、込み上げてくる嗚咽を噛み殺し、マリアの手を握った。
「もう、みんな解ってるよな? この世界が、おかしな事になってきてる。陸軍も海軍も、動き出してる。大神前支配人も、かえでさん……前副支配人も、軍に復帰するために帝劇を辞めた。でもな……ホント、此処だけの話にして欲しいんだけど、二人とも、戻りたくないって言ったんだ。軍から籍を抜いて、帝劇に留まりたいって思ってたんだ。だけど、そんな事したら帝劇への風当たりが悪くなる。特に、日本人じゃないメンバーは、大変なことになるって、解ったんだ。本当は、あたいじゃなくてマリアの方が支配人に適任なのに、あたいが支配人になったのは、マリアが日本人じゃないからだ。マリアが帝劇を仕切れば、やっぱり風当たりが悪くなるって、あたいと、大神隊長――あ、前支配人と、かえでさんとマリアとで話し合って決めたんだ。外国人で何が悪いんだ? 今まで仲良くやってたのに、いきなりおかしいだろ? なんで、日本は中国に悪さするんだ? 紅蘭はそれに耐えられなくなって、中国に帰ったんだ。霊子甲冑の生産をしている神崎重工が帝劇と繋がってるってなったら、あたい達も軍に吸収されて、他の国と戦うための兵士にされるかも知れないっていうんで、すみれは今回の公演の出演を諦めたんだ。世界中、おかしな事が起こってる。けどな、忘れちゃ駄目だ。そうやって、自分を犠牲にしてでも必死でこの帝国歌劇団を守ってくれた人達がいるからこそ、今回の公演は成功したんだ。そうだろ?
なぁ、そうやってみんなを守って来てくれた人たちが、本当に守りたかったものはなんだ? それを、考えてくれ。そして、それを忘れずに生きてくれ。いつか必ず……また此処に集まろうぜ。あたい達が本当に守らなきゃならないもの守り抜いたら、また、舞台やろうぜ。……約束、して、下さい」
ゆっくりと、カンナは頭を下げた。永遠にさえ感じるような沈黙を、レニの穏やかな拍手が破った。拍手は波のように広がり、それが、全員の“約束”なのだと理解した。
「今日は、ゆっくり休んで下さい。いつか、此処に再び集まるまでの旅立ちの準備を、明日から各々始めて下さい。お疲れ様でした」
カンナの隣りに立ち、さくらは、副支配人として頭を下げた。打ち上げをしない事は最初から決まっていた。「次回公演で思いっきり飲めるように、今回は打ち上げを見送ろう」と、レニがみんなを送り出した。楽屋から、最後に出たのは初演メンバーのレニ、さくら、アイリス、マリア、カンナ、織姫と、レニの子供の七人だった。
「ごめんな……」
カンナが呟いた。
「レニ、お祝い出来なくて、ごめん。おめでとう、レニ」
「おめでとう」
織姫が鼻をすすりながら、カンナに続いた。
「おめでとう、レニ。幾つになったんだっけ?」
「ありがとう、三十一だよ、さくら」
「そうだね」
解ってるんだけどね、と、さくらは笑って見せた。
「おめでとう、レニ、いっぱいいっぱい、ありがとう!」
アイリスは、レニの背中に抱き付いた。長く組んで、恋人役を演じることの多かった二人の、最後のラブシーンのようにも見えた。慈しみあい、励まし合い、支えあってきた年少の二人の。
「おめでとう。お休み」
マリアは、さっと踝を返し、楽屋を出て行った。
「マリア……?」
「そっとしてやってくれよ。マリアも、色々……大変だからさ。レニも、早く部屋戻れよ。その子も大分疲れてるみたいだし」
「……うん」
カンナに促され、めいめい自分の部屋に引き上げていった。
部屋に戻り、子供と一緒にベッドに潜り込んでも、レニはなかなか寝付けなかった。舞台が終わった後にいつも感じる高揚感と共に、大きな喪失感と、言いようのない寂しさを感じている。あと一週間程で、この場所から離れなくてはならない。故国、ドイツを離れて十五年。此処を離れる日が来るなんて思わなかった。夫の話では、大帝国劇場は年明け早々にも取り壊される事になるらしい。帝国華撃団の秘密を守るためだ。帝国華撃団にある兵器類を軍に渡さないため、そして、帝国華撃団に所属している者達の能力を隠すためだ。帝国華撃団に纏わるものを抹消しなくてはならないと彼は言う。
夢なら良いのに、とレニは思う。そんな事はありえないと知りつつも。
隣りで眠る、我が子の穏やかな寝顔を眺めていても、胸のざわめきはおさまらない。レニはそっとベッドを抜け出し、子供が目を覚まさない事を確認すると、一度布団ごと小さな身体を抱き締めてから部屋を出た。
大帝国劇場の廊下は静まり返っていた。幼い頃にいた、研究所の廊下を思い出す。誰もいない、冷たい空間。また溢れ出しそうになる涙を堪え、レニは舞台に向かった。
何かの気配を感じたのは、客席入口の側を通り掛かった時。耳慣れた音楽が、客席入口の分厚い扉を震わせている。レニはそっと扉を開いた。紅蘭自慢の音響機器を通して舞台に響き渡っているのは、レニが最も得意とするバレエのヴァリエーション、『くるみ割り人形』の『金平糖の精の踊り』の音楽だった。
「誰かいるの? 音響さん?」
レニは舞台に駆け寄り、振り返って二階客席奥の音響席に声をかける。大音響の中でもレニの声は劇場に響き渡り、音響席にも届いた。ブースの窓が開き、顔を出したのは、思いがけない人物だった。
「久し振りやね、レニ」
大きな丸眼鏡にそばかすを散らした頬。トレードマークだったお下げ髪は、今は後ろで一つに束ねられ、快活な印象が増している。帝国歌劇団花組を抜け、中国に帰った筈の李紅蘭その人だ。
「紅蘭!? どうして……」
「マリアはんが招待券送ってくれたんや。観さしてもろたよ、最後の舞台……ほんまに良かった」
「舞台降りた事後悔するくらい」と、紅蘭は小さく付け加えたが、レニの耳には届かなかった。
「今は、音響機材の調整中。うちのおらん間も、ちゃんとメンテナンスしとってくれたみたいやな。あ、そうや、レニ、踊ってや」
「え?」
「はよう、音終わらん内に!」
いきなり紅蘭に促され、戸惑いながらもレニは舞台に駆け上がり、舞台中央で足先を床に滑らせる。チェレスタの音に合わせ、レニは踊り出した。トゥ・シューズを履いていないため、ポワントで立ち切る事は出来ないが、レニは軽やかに踊り回る。まるで背中に羽が生えているかのように、滞空時間の長い軽やかなジュテ、滑らかなポール・ド・ブラ、フェッテ、安定感のあるピルエット――歌うような柔らかな踊りを得意とするレニの、二十年変わらないバレエスタイルは、やはり美しい。紅蘭は静かに頬を濡らす温もりにも気付かず、じっとレニを見詰めていた。初めて逢ったレニは、笑う事も知らないロボットか人形のようだった。歌も踊りも正確で、間違いはないが心に響かない。仲間ともコミュニケーションを取れないため、演技も深められない。技術ばかりが先行し、肝心なものが欠けていた。だが、『青い鳥』を経て、レニは変わった。レニの演技に“心”が生まれた。『アラビアのバラ』、『宝島』、『海神別荘』……どれもこれも、素晴らしい作品になった。十五年前の『奇跡の鐘』初演は正に伝説の名作だ。『愛ゆえに』で、マリアとタブルキャストでオンドレを演じた時、新たな男役スターの誕生を確信した。マリアが演出を手掛けるようになり、出演が減った頃から、レニは名実ともに男役のトップになった。また、レニの提案で、公演と公演の合間に安価のミニ公演を行うようになり、次回公演の予告を含めたコンサートや普段はやらないようなオペラやバレエの小品を上演したりもした。本公演が続くと疎かになりがちな基礎を固めるきっかけにもなり、公演のレベルが益々上がった。そんなひとつひとつを思い返しながら、紅蘭はレニを見詰めていた。いや、紅蘭だけではない。いつの間にか、レニの子供を抱いたカンナ、すみれ、さくら、織姫、それにマリアやアイリス、かえでまでもが客席に集まっていた。音楽が終わり、レニがぴたりとポーズを取って止まると、客席から拍手が起こり、レニはその時初めて『奇跡の鐘』初演メンバーが勢揃いしている事に気付いた。
「みんな……すみれにかえでさんまで! どうして……」
「こいつ、あたいの部屋にいやがってよぉ、話してたら、この子が泣き出したんで、レニ探してたんだ」
「ごめん……」
「良いんですのよ、お陰で久々にレニの金平糖が見られましたもの」
以前にも増してしっとりと落ち着いたすみれが、上品な笑みを浮かべた。レニは舞台を降り、カンナから子供を受け取ると、かえでに向き直った。
「あの……」
「お誕生日おめでとう、レニ。素敵だったわ、貴方の金平糖。毎年打ち上げで観ていたけど、今までで一番良かった」
「ありがとうございます」
「すみれも紅蘭もかえでさんも、今日の公演を見に来てくれていたのよ。かえでさんは、私から話があったから、私の部屋で待っていて頂いて……」
「ふふ、大神君に仕事押し付けて来ちゃった」
悪戯な少女のようにくすくすと笑うかえで。すみれや紅蘭に比べれば逢う機会はある方だが、それでももう三ヶ月近く逢っておらず、懐かしく感じた。
「レニ、素敵な踊りを見せてもらったわ。ありがとう。……こうして、ずっとみんなで踊っていられたら良かったのにね」
さくらはぽつりと呟いた。
「ずっとみんなで……なあ」
音響席から客席に降りてきた紅蘭が曖昧な笑顔を浮かべた。
「時代は変わるものよ。花は散る、雨はやむ、季節は移ろう、夜は明ける……その中で、“ずっと”なんて無理なことよ」
マリアは淡々と言い切った。さくらとて、それは解っている。そして、マリアもまた、さくらの気持ちを解った上でそう言ったのだった。
「さくらは、仙台に帰るんだよね?」
「えぇ、真宮寺を継ぐから。破邪の血と技を後世に受け継ぐのも私の大事な使命なの」
アイリスの問いに、さくらはこくんと頷いた。これまで何度も、お互いの進路を確認し合ってきた。まるで、互いの居場所を見失わないようにしているかのようだった。
「織姫さんはイタリアですよね?」
「は〜い、パパとママと暮らすです。アイリスはフランス……カンナさんは沖縄に戻るですよね?」
「ああ、あたいも“琉球空手桐島流”を継ぐからな」
「それぞれ、道は違えど、大事な仲間で〜す。離れ離れになっても、それだけは変わらないですね」
「マリアさんは、日本に残られるんですよね?」
さくらの言葉に、全員がマリアに視線を集めた。これまでマリアはあまりこの話に参加して来なかったが、さくらやアイリス達と違い、家族もなく、故郷も捨てたマリアにとって、帝劇は唯一の家。マリアは再び“家”を失う事になるが、たとえ帝劇がなくなったとしても、マリアは帝都にいるものだと、みんな信じて疑わなかった。同じく海の向こうに帰る場所を持たないレニも、帝都に残るのだから。
「…………いいえ、私は……日本を離れる事を決めているの」
「え!?」
真っ先に声を上げたのは、レニだった。
「どうして……何処に行くの?」
「今は言えないわ」
「なんで……」
混乱を見せるレニに、マリアは首を振った。言えない、と。
「かえでさんとは連絡を取るから、落ち着いたら詳しく伝えるわ」
「そんな……」
「マリアさん、もし行くところがないなら、一緒に仙台に行きましょう!」
「日本を離れるなら、イタリアに来たら良いで〜す」
「マリアさん……」
予想外の言葉に焦り、今にも泣き出しそうな勢いで、花組の面々はマリアを囲んだ。居場所が解らない事が、酷く恐ろしかった。このご時世だ、何があるか解らず、何か危険がありやしないかと不安に駆られた。
「大丈夫だから……」
「せめてどこに行くのかは教えてよ!? カンナ……カンナはなんで何も言わないの? 何か知ってるの?」
ほんの数時間前、カンナの口にした“色々大変”の意味が、レニには理解出来てしまった。それが、堪らなく不安で、苦しい。マリアも此処までの騒ぎを想像しておらず、戸惑った。しかし、
「ランラランランラランラン、お部屋の中を、ランラランランラ全部お花で飾ったらみんなで、パーティをしよう!」
それは、本当に突然の事。アイリスが『お花畑』を歌い出したのだ。
「ア、アイリス……?」
前触れもなく始まった歌に、みんなぽかんとアイリスを見詰めた。アイリスは舞台に駆け上がり、スカートを翻しながら大声で歌った。歌というより叫びに近い声だった。
「赤い花、青い花、黄色い花、薫る花、愛でる花、安らぎの花……」
大声で、笑顔で、しかし、大粒の涙を流しながらアイリスは歌う。懸命に、真っ直ぐに。あらん限りの声で。
アイリスが幼かった頃、誕生日にこの歌を歌った事がある。以来、アイリスは“門出”の度にこれを歌った。初めてクレモンティーヌを演じた時、レニが二十歳の誕生日を迎えた時、大神やかえでが帝劇を去る時も、この歌で送り出した。アイリスにとってこの歌は、何かの“始まり”を激励する歌なのだと、いつか言っていた。
「……わになぁってうたおおよ、あしたのために」
アイリスに声を重ねたのは、誰あろう、レニの腕に抱かれる幼子だった。無垢であどけない声に、何故か胸が痛んだ。
「色とりどりの花といる、柔らかい時……」
二人の声に、マリアも小さく声を合わせた。その声に、カンナと紅蘭は目を見交わし、にんまりと笑った。“合図”だ。昔、政治的な問題や国家間のトラブルなど知らず、ただ純粋に舞台を楽しみ、人々の笑顔を守る事が幸せで仕方なかった頃、毎日のように企ててた小さな悪戯を実行する時に、みんなそうして目を見交わした。
「愛が溢れ、笑顔が溢れ、人の心に……」
あの頃に戻ったように、カンナの声が、紅蘭の声が、それからさくら、織姫、すみれ、かえでと声が重なり、全員が舞台に上がってアイリスを囲んだ。客席で、レニはぽろぽろと涙を零しながら、歌う我が子を抱き締めた。
「ララランランランランラン!」
歌が終わると、花組は手を叩き、微笑み合った。
「アイリスから……と、みんなからの、お誕生日プレゼントだよ。本当には打ち上げがあったら歌おうと思ってたんだけど……」
「アイリス……」
「レニ、大好きだよ。アイリスはフランスに帰っても、みんなの事、忘れないよ。どこにいても仲間だよね?」
どこにいても……たとえ、今その場所が解らなくても、この世界に生きている限り。
あぁ、いつの間に彼女は大人になったのだろう。きらきらと瞳に涙を浮かべながらも気丈に微笑むアイリスが、レニにはこの上なく心強く、愛おしく思えた。感情を持たず、ロボットのようだった自分を一番近くで支え、変えてくれたのは彼女だった。舞台でも組む事が多く、互いに一番の理解者であった。けれど彼女は年下で、子供の頃から知っていたし、年長者に囲まれていた。だからいつまでも幼く見えて、ついつい世話を焼いていた。それなのに、今では彼女の方がしっかりしているようだ。
「有り難う、アイリス。有り難う、みんな。僕も、みんなが大好き。だから……」
レニは子供を抱き直してから、真っ直ぐにマリアを見詰めた。
「だから、必ず連絡してね、マリア」
「約束するわ」
マリアが頷くと、空気がふっと柔らかくなる。アイリスは息をついた。
「ねぇ、レニ、“金平糖”踊って? さっきの途中からだったし、最初っから見たいな」
アイリスはぺたんと床に座り込むと、舞台下に立つレニと視線を合わせた。自分が目を見て頼むとレニは断れないと、アイリスは知っている。
「……うん、良いよ。じゃぁ、紅蘭、音をお願い出来る?」
「はいな」
言うが早いか、紅蘭は舞台袖に駆け込んだ。
「マリア、一緒に踊って?」
「え……パ・ド・ドゥを踊るの?」
「ヴァリエーションだけじゃつまらないし、それに……日本にいないんじゃ、一緒に踊れないでしょ、暫く」
“暫く”――その言葉に、全員がくすりと笑う。
「カンナ、この子をお願い」
「おう」
カンナは客席に飛び降り、レニの腕に抱かれた子供を抱き上げた。入れ替わりにレニが舞台に上がると、マリアを残して全員舞台を下りる。
マリアはそっと手を差し出す。レニはその手に手を重ねる。
幸せな瞬間だ。
紅蘭は何も言わず、絶妙のタイミングで音楽を掛けた。
ピョートル・チャイコフスキー作曲のバレエ組曲『くるみ割り人形』から、『金平糖の精の踊り』。ミニ公演で、精巧な金色の刺繍を施した白い衣装を着て踊るレニは、凜として、正に“女王”だった。その時もマリアとパ・ド・ドゥ――男女ペアの踊りを踊った。クライマックスで踊るこの踊りはグラン・パ・ド・ドゥといって、作中一番の見せ場だ。九割以上が男役のマリアは、ダンスではレニと組む事が多く、この踊りでも何度も組んだ。一年以上踊っていなかったが、改めて踊ると息はぴったり合う。溜息のこぼれる程の美しさだ。
「綺麗だね」
客席で、アイリスは隣りに座るカンナに囁いた。
「アイリス、レニと金平糖踊りたかったの……」
「へぇ……?」
「レニの踊り大好きで、アイリスもレニみたいに踊りたいなぁって思ってたの」
「踊れますわよ」
逆隣りで囁いたすみれの瞳には、小さな真珠のような雫が煌めいていた。すみれはじっと、舞台上で舞うレニとマリアを見詰めている。
「わたくしはいつか、必ず『紅蜥蜴』を再演しますわ。明智役は貴方しか許しませんわよ」
本人の顔も見ずに、しかししっかりと、すみれは言い切った。
「日本と中国がまた仲良うなったら、『つばさ』やろな、アイリス。うち、日本に帰って来るから」
音をかけっ放しにして客席に戻ってきた紅蘭は、アイリスの後ろの席に腰を下ろした。いつだって、本当は踊りたい。本当は、歌いたい。口に出来ない言葉を飲み込んで、震える唇を噛み締めながら、紅蘭もレニとマリアから目を離さなかった。
「『アラビアのバラ』、絶対やるで〜す。対立する事の空しさ、あの作品で一番感じました」
主役は勿論、今、舞台で踊るあの二人。愛と平和の本当の価値を、物語を通して伝えたい。織姫の瞳に決意の色が光る。
「『愛ゆえに』のクレモンティーヌ、まだまだアイリスには負けないんだからね。オンドレ役はマリアさんが良いな」
「……『西遊記』とか『宝島』やろうぜ。みんなで、大冒険しようぜ」
さくらとカンナも、嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。
「台本は全部、私が守るから。楽譜も装置図も、全部私が守り抜くから……軍が何と言おうと、私はこれからも帝国歌劇団を守り続けるから……必ず戻ってきなさい」
かえでの言葉に全員が声もなく頷いた時、音楽が終わった。客席から、拍手が起こった。
「やっぱり、貴方と踊るのは最高。有り難う」
マリアが右手を差し出すと、レニはその手を固く握り締めた。
「僕も……」
そして客席に向き直り、
「紅蘭、有り難う」
「こっちこそ」
「……知ってる、みんな? 今年はね、チャイコフスキーが生まれて、百年目なんだよ」
「……そういえば」
レニの突然の豆知識に、納得したのはマリアだけだった。かえでも数秒後、思い出したように頷いた。
「一八四〇年、チャイコフスキーは生まれたんだ。そしてこの美しい音楽を残してこの世を去った……でも、死して尚、愛されてるんだよね。僕も大好きなんだ」
息を弾ませながら、レニは舞台の面<つら>に腰を下ろした。舞台中央を振り返ると、これまでこの舞台で演じられてきた様々な役の人々が通り過ぎて行くように思えた。
「百年……僕も、例えば生まれて百年後も、みんなが語り継ぎ、忘れられなくなるような役者でありたい。そして、想いを繋いで、みんなを笑顔にできるような役者を沢山生み出したいんだ」
いつも、決して口数の多い方ではないレニが、こんな風に夢を語るなんて、稀有なことだ。しかし、輝いている。スポットライトを浴びているわけでもないのに、レニは光を纏っているように見える。
「そうですね、五十年後もこの場所で『奇跡の鐘』が出来たら素敵!」
「アイリスも、一緒にやりたい!」
さくらの言葉に、アイリスが興奮気味に答えた。
「五十年後って、さくら、おめぇ八十過ぎてるぜ?」
「あら、わたくしは死ぬまで女優ですわ。八十になろうと九十になろうと百になろうと、わたくしはいつでもセンタースポットに立つ主役ですのよ」
「舞台で死ねるなら、本望だわ……」
「それは、迷惑だろ」
マリアの暗い発言に、カンナは思わず突っ込んだ。
「マリアはんやったら、ありえそうで怖いわぁ」
「でも、マリアさんも百まで舞台にいそうですね〜」
「アイリスも百歳までやるもん! アイリスが一番若いから、一番長く舞台に立てるよ」
「年の話はしないでちょうだい!」
最年長が頬を引き攣らせた。訳もわからずきょとんとしている子供を除いて、全員が顔を見合わせて、大きな口をあけて笑った。笑いながら、頬を涙が伝うわけを、誰も問おうとは思わなかった。
そして誰もが思ったのだ。叶わないと知りつつも、“ずっと、みんなで”と――
明るい記憶を置き去りに、歴史は暗黒の闇へと突き進む。
二〇〇九年十二月、東京――
銀座は、今年も賑わっていた。不況の風は何処へやら、街中、クリスマスムード一色だ。昼は太陽の下に赤や緑のリボンや靴下、サンタクロースやトナカイの飾りが目に楽しく、夜はイルミネーションが星より鮮やかに瞬く。この街のいたるところに、今年も大きなポスターが貼り出され、人目を引いていた。冬空の青と雪のような白を基調に描かれた、品の良いポスターだ。ポスターには、白いベールを目深にかぶった女性のシルエットが浮かび、こう書かれている。“帝国歌劇団クリスマス特別公演『奇跡の鐘』”。
「今年も、この季節だよねぇ」
「いつ行くの?」
「勿論、イヴ。自分は?」
「イヴのチケット、取れなかったんだよ〜。でも、楽は取ったよ。てか、今年のチケ大、凄くなかった?」
「年々取り難くなるよねぇ。でも、年々面白くなるから、やめられない」
ポスターの前を通る人々は、皆笑顔だ。
初演から八十四年。一九四〇年の公演を最後に再び“幻の名作”と呼ばれ、語り継がれた作品が、三度お客様の元に返ってきたのは、一九四八年の事。退役陸軍中将の大神一郎が私財を投げ打って市民のために、銀座に小さな劇場を作り、妻のレニと共に一から“帝国歌劇団”を作り直した。再建後の第一回公演は、一九四八年春に行われた。演目は『愛ゆえに』。準備資金は潤沢とはいえず、用意出来たポスターは数える程度。演出、大神一郎。主演、イリス・シャトーブリアン、レニ・ミルヒシュトラーセ。立ち見も出る程の大盛況だった。『奇跡の鐘』はその年の暮れに上演され、以来、毎年恒例のクリスマス公演となったのである。
大神らの努力の甲斐あり、現在、大帝国劇場はかつてのそれよりも大きく、立派な劇場となった。十二月半ば、本番を翌日に控えたこの日の稽古後、見学に来ていた支配人は、ひとりひとりの役者に駄目出しやアドヴァイスを与え、最後に、全員を集めた。
「いよいよ、明日は本番です。この作品には、八十年以上の歴史がある。そして、多くの人々の想いや夢が込められています。貴方達の手で、必ずお客様に届けて下さい。お客様が、忘れられなくなるような作品にして下さい。では、恒例のあの歌を……」
支配人が目で合図を送ると、ピアニストはアップテンポの明るい音楽を奏でた。歌劇団の団員達は、俳優もスタッフも入り乱れて稽古場を踊りまわりながら、“始まり”を激励する歌を歌う。それは、支配人が遠い昔、母の腕に抱かれながら聞いた母の仲間達が歌った歌。
苦難の時代に離れ離れになった仲間達の夢は、こうして、受け継がれている。
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