明かりの下

舞台の神様が微笑んだ日。
 ボクは、降りだした雪ですべらないように、ひっそりと帝劇の屋上へ出た。
 輝く電飾で彩られた銀座は、夜が更けても蒸気自動車と人の流れは絶えず、ざわめきが上ってくる。
 夜をみはるかす景色は、雪と明かりばかりだ。
 客席からの拍手を思い出して、ため息が出た。
 去年の舞台も、拍手が鳴り止まなかったことを思い出す。
隊長に「奇跡の鐘」の聖母役に選ばれ、立った舞台。
あれから一年。良くなっただろうか。
お客様に、良い歌だった、と思ってもらえただろうか。
ほんの少しでいい、幸せになってもらえたら。ボクが、皆に会えて幸せになれたように。

「ひゃあ、さっむいね。レニ、おつかれさま!」
 下からアイリスが顔を出した。
「お疲れ様」
「風邪、引いちゃうよ」
はい、と暮れに購入したポンパドール・ピンクのコートを渡される。
せがまれて、アイリスと揃えた。たれみみうさぎ帽子も一緒に。
白い縁取りのある、裾がたっぷり広がったコートは、隣へ登ってくるアイリスに良く似合った。ボク自身には、機能的には思えずなじめなかったが、アイリスが着ているのを見るのは快かった。
着ると急に、冷たさが身に染みてくる。
「すごかったね。皆まだ楽屋で飲んでいるみたいだよ。わぁ、きれーい」
 白い息を吐きながら、隣にぴったり並んで景色を見ている。

 誕生日パーティーが終わった後、アイリスと椿とボクは楽屋から退出した。
3次会用に隅へ置かれていた酒瓶は、人数から見て多すぎる量で、明日の皆の体調が心配だ。
「アイリス、子供じゃないもん!だから飲めなくても、いたかったよ…」
「そうだね…」
延々続く、飲み比べと酔っ払いの歌を、アイリスが喜ぶかどうかは、疑問だが、言わない方が、良いのだろう。
「だからねぇ、持ってきちゃった!はい!」
 柚子の香りが立ち上るカップを、笑顔で鼻先に出される。
「あ…ありがとう」
「柚子茶派は、仲良しで楽しむんだもん!」

 柚子茶とジンジャーシロップ。
 柚子茶と、ジンジャー・レモン・香辛料を漬け込んだシロップへ、お湯割り(アルコールで割る者もいる)が、帝劇内で流行っている飲料の二大派閥だった。
ボクはどちらでもよかった。
 強い香辛料をきらったアイリスが、笑顔で
「レニも柚子茶派ね!」
…と言うまでは。
シロップを作った者が責任を持って飲みきる、という暗黙のルールによって、冷蔵庫の柚子と瓶詰めの柚子ジャムは、今冬はボク達のものだ。

「ふぅ…あったかいね!レニは、どうしてここへ来たの?」
「……拍手を、お客様の笑顔を、忘れたくなかった」
「レニ…」
 カップから目を外し、アイリスを見る。続きを待つ彼女のコートへ、薄くかかった雪を払って落としてやる。
「去年よりも…楽しんでもらえたか…幸せになってもらえたか…楽しく歌えたか。ボク達ができるのは小さなことだけど、お客様からはたくさんの拍手をもらえる」
「うん」
「去年よりもたくさんの拍手をもらえて嬉しかった。公演が終われば、皆あの明かりの下へ帰って行く。ずっと、ずっと、思い返していたかったんだ。ずっと、ずっと、遠い明かりの下の人まで、気持ちが届いたか…知りたかったんだ」

 遠い明かりの下にいる、隊長まで。

 はっきり言葉にしないのに、聡いアイリスには通じたらしい。一瞬泣きそうな顔になったのに、それでも笑顔になった。
「届いたよ」
「アイリス…」
「アイリスね、何となくだけど分かるの…お兄ちゃんが、皆のことを、ずっと心配していることが。アイリス達が、お兄ちゃんだいじょうぶかな、だいじょうぶかな、って心配しているのと同じくらい心配しているの」
 空いた片手を握られ、ふらふらと揺らされる。
「それでね、アイリスは、レニが、今年一年、うーんとがんばったことも、知ってるの。17才のおたんじょうび、おめでとう」
「アイリス…」
「ちゃんと、皆に届いたよ。舞台から客席へ届いたよ」
「ありがとう…」

 雪は止まない。二人で景色をながめても、いっそう暗く感じるばかりだ。
「次も、皆で届けようよ。歌で、皆がもっと幸せになるように、アイリス、いっしょうけんめい歌うよ」
「うん…」
「明かりのずーっと、ずーっと、向こうまで!だからアイリス、泣かないよ。また会えるから。お客様にも!お兄ちゃんにも!」
「うん」
「中へ入ろうよ。皆とは別に、柚子茶派で、レニのお祝いをしようよ!」
「…そこにこだわるんだ…」
 ボクの呟きは聞こえなかった振りで、アイリスは下へ降りてゆく。
 後ろを振り返ってから、ボクも下へ降りる。
 町には、まだ雪と明かりが輝いていた。